ホーム蓮の花道雑記
内藤忠行私論(続)
『出会い-2』
 JALの機内誌でブルーロータスに出会ってから一週間ほどたっていた。梅雨は未だあけていない。
「一の橋の方から麻布十番に入ってしばらく進むと麻布十番温泉があるから、その角をしだりに入って・・・」背広の足元は雨のはねで、ワイシャツの背中は汗でいずれもぐっしょりになりながら右手に傘を、左手には地図を持ち十分程麻布十番界隈を歩き回っただろうか、氏のアトリエは古いビルの階段を上がった端にあった。
 額縁やら撮影機材やらが雑然と置かれた狭い通路の奥に進むと小部屋があり、やはり本や写真集やダンボールが所狭しと積み上げられた部屋の真ん中に氏は座っていた。
形どうりの挨拶をすませ、ブルーロータスに受けた感動と感銘をそれとなく語り、いきなり電話をかけ「一度、是非お会いしたいのですが・・・」と強引にアポを取り付けた言い訳にした。
 実際こういう形でアポを取り付け、初対面の他人にこちらから会いに行くというやり方は初めてのことであったし好きでなかった。

「ごめんなさい、クーラーが壊れていて、・・」
氏はそう言うと、すまなそうに団扇のような物を手渡してくれた。とにかく蒸し暑かった。
 早く本題に入り、いつもやっている様に手際よく問題点を整理し、課題とタスクをあらいだし指示を出し、打ち合わせは終える。こちらは身にしみ込んでしまった習い性で先を急ぐのだが、なかなか本題に入っていかない。
 最初は不機嫌そうに、時折気弱そうに、又気難しそうに氏は語りだした。
「最初はジャズね。マイルスにいかれちゃって、ジャズを撮り出したのね・・」
 たしかに、壁際の棚には陽に焼けて変色しかかったレコードのジャケットが数枚置かれていた。

 相槌を打つ要領で「これはいつごろ撮られたものですか。」と棚に置かれたジャケットを指差した。
「うーん、・・これね。アフリカいく前だから、もう四十年ぐらい・・」
いきなりジャケットのなかからマイルスの囁くようなペットが聞こえてきそうな緊張感がセピア色の陰影にカットされている。
『これは原点だな。』と、なぜか唐突に思った。
『四十年、この人はこの写真を宝物のように大切にしてきた。少年がはじめて捕ったカブト虫をいつまでも棄てられないように。』
ビギナーズラックと人は言うこともあるが、無心で作った最初の一作には、たとえ生硬であっても対象と作者との調和というか、必然性みたいなものが必ず表われる。
そのあと氏との会話の中で度々出てきた 『スピリチュアル・・・』がなんの気負いも無く表現されていた。

 氏を訪ねた目的は二つあった。一つは蓮の花のコレクターとして純粋にブルーロータスを撮った内藤忠行という作家を見たかった、そして話をしてみたかった。
「何故、蓮の花を取り出したのですか。どうやったら、こんなに不思議な写真を取れるのですか。」
それほどに、ブルーロータスはいままで見た蓮の花の写真とは何かが違っていた。
 今一つは東京と上海でオープンする蓮花画房のキーコンセプトとなるイメージにブルーロータスを使いたかった。たとえばウエブサイトのトップページとかにも。
内藤忠行という写真家を知ったのはそのJALの機内誌であったし、彼が斯界の権威であるのか、それともアマチュアのカメラマンに毛の生えたようなものなのか、それさえも見当がついてなかった。もし前者なら著作権料を含めその利用料がどれ程のものなのか。

『あんまり高い事を言われたら、早々に退散するしかないか。』などと思いながら氏を訪ねたのだった。
氏は何を思っていたのだろう。氏は誰にでもこんなに饒舌に、無防備に自分の作品に託してるとはいえ自身の来歴を語るのだろうか。

氏の話は続いた。何冊もの写真集をデスクに開き、サバンナの風の色について語り、ゼブラの白と黒の無謬を語り、桜の精にとりつかれた昔を語った。


内藤忠行私論 
『出会い-1』
 一年ほど前のちょうど今時分。記憶をたどってもどうも起点が定かに思い出せないのだが神宮前二丁目のこの場所にギャラリーをオープンする事に決めた。何をどう仕入れ、誰に、どう売るかといったマーケティングのプロを自称している当人が本来プランニングすべき事さえ全くしないで出店契約だけ、さっさとやってしまったのだ。

 その半月前、上海・莫干山にギャラリースペースをこれも、ほんの気まぐれと偶然で借りたことも勿論理由の一つではあった。ただ上海ギャラリーの方は莫干山に集まる現代の画家の中から気に入った作品を週変わりで展示することを最初からのコンセプトとしたのに対し、東京の方は全く何も決まっていなかった。古伊万里も李朝も良い、上海の油彩も掛けたいし、深大寺の蓮池をモチーフにした関野氏の版画も飾りたい。有田や美濃の現代陶芸もあった方がいいにきまっている。

 知り合いの骨董店主や旧知の美術館長にその事を告げると、一人は大げさな身振りをまじえ、もう一人はすまなさそうに俯きながら
「今からでも間に合います。おやめなさい。」 「素人がギャラリーなど無謀の一言です。それも、東京と上海に同時にオープンなど聞いただけで寒気がします。」

それではと、ちょっと毛色の変わった自称前衛画家にご意見を拝聴すべく赤坂の料理屋に一席設け事の次第をお話しすると
呵呵大笑され
「実に愉快、豪快ですな。山本富士子でも小暮美千代でもやらんでしょう。」と、おっしゃる。なんで、ここで、山本富士子と小暮美千代なのかわからぬまま
「いけますか。」と訊ねると
「パリの由緒正しい老舗の画廊でも近頃では抽象画は月に一枚も売れないそうです。私も波はありますが、まあー、月に四,五枚は大作を製作しておりますが、ぜーんぶ、ラブホテルの壁画というか、まあー上等な壁紙。」

「おやりなさい。ぜひ、おやりなさい。やるなと言っても、どうせおやりになるのだから。私も一肌ぬぎましょう。例えばギャラリーのネーミングを一緒に考えるとか。」
「いや、何にも決まってないのですが、名前だけは決めてます。はす の はな の画 のふさ と書きまして蓮花画房としようと思ってます。」

 もう二十年にはなるだろうか、最初は香港でたまたま買った睡蓮の水彩画であった。その後上海、ソウル、ハノイ、広州と旅に出るたびに掛け軸であったり、李朝民画であったり、油彩・版画と蓮を描いた作品を捜しまわっては買い集めた。
だから、と言う訳ではないが上海・莫干山にギャラリーを決めた時何となく胸の内では『蓮花画房』は既に決まっていた。
「いや、すばらしい。実にすばらしい。若尾文子でも原節子でも敵いません。蓮花画房ですか。ところで、この鱧うまいですな。ほー、この鮎は深山ですか。」
 前衛画家はその後上機嫌で談論、痛飲してこんな一言を残して夜の赤坂に消えていった。
「無駄、徹底的に無駄を形式化して露骨なまでに徹底する。こんな愉快なことはありません。今、私は昭和大女優東西番付表をつくってまして、東の横綱は山本富士子で決まりなのですが、西が決まりません。新珠三千代か、・・花影の池内淳子も捨てがたい。
まあー、完成したらお送りしましょう。」

 その翌日、福岡への出張でいつも乗るANA便がとれず、めずらしくJALに乗った。梅雨空の羽田を離陸した機は時折激しく機体を揺らしながら梅雨前線の雲の中を上昇していった。水平飛行に移り何気なく座席ポケットの機内誌をめくると氏のブルーロータスが5ページ程、枚数にして十枚位のっていた。
それがブルーロータスとの最初の出会いであった。
淡いブルーの濃淡を背景に造花のような白い蓮の花がうかんでいる。
作家の心象風景のように思えた。

特展酒会続話(上海)五月某日
「昔はね、少し研究にのめりこんだ事もあったけど、今は、さっぱりで。もう、すっかり忘れてしまった。」
「いや、ラオパンのことだから、本質というか、髄のところは、究めて、見切られたはずだと思いますが」 微笑みながら李君が言った。

いつもの事だが李君の観察は鋭い。究めたところで前へ進むか、後ろへ下がるかは人それぞれであって、いずれも、いずれとは言いがたい。
「ところで李君さっきの老子の続き、君、知っている」
「いや、知りません。黒マントの先生に聞いてきましょうか」

先生は禁煙であるはずのギャラリーの真ん中で悠然と紫煙をくゆらせながら、談笑されている。李君は黒マントに歩み寄ると何やら囁いた。
先生はその精悍な顔をこちらへ向けるとにこっと微笑まれ近ずいてこられた。

「ニイハオ、ラオパン。上海へようこそ。」
「ニイハオ、先生。お会いできて光栄です。」社交辞令ではなく瞬間、光栄というか、幸運を感じた。これからの数分間に起きるであろう未知なる体験と転回点を予感したというべきか、先生から伝わるオーラには経験と研鑽が発酵し蒸留し、滴が光っていた。
「老君にご興味が,おありとか。」
「なにぶん、不勉強でして、お恥ずかしい限りです。寄せ書き帳の一文は老子とお聞きしたのですが。」
「はい、太上清静経です。まあ、道、タオのお経みたいなものです。」
「あの続きを知りたいと思いまして。つまり、女は濁なりの。」先生は又も、にこっと微笑まれ「男は動にして、女は静也。本より降りて末に流れ、而して万物を生ず。」と続きます。
「どのような意味なのでしょうか。意味などお聞きするのは不躾とはおもいますが。」
黒マントの先生は「フッフォフッフォフッフォーー」と聞こえる笑い声を発すると
「老君は難しい哲学は説きません。当たり前のことを少しだけ極大化というか、まあー、明快に述べているだけでして、ラオパンが実践され、経験されてきたことです。」

先生の解説によると万物には「道・タオ」という根源的な原理があり人はその「タオ」に拠って生きるべきであると。又万物には陽と陰、動と静,清と濁がありこれらが混ざり合って又万物が生まれるのだと。
そして、こうも付け加えられた。

「老君の老君たるとこは実はその後でして、水や女など柔らかく弱いものが常に勝ち、生き残る。これが法則だとおっしゃる。牝は常に静を以って牡に勝つと断定される。」
なるほど、タオは深いと痛感した。混ざり合ったこととか、静に負けたこととか遠い昔のことが思い返された。
「ラオパン、顔色がよろしくないようですが。」
「はい、ちょっと疲れが」
道可道,非常道をもっと知りたいと思った。ひょっとすると老年に差しかかっての今一度の生き方とか死に方を整理する手がかりになるかもしれない。

「ラオパン、無理をされないほうがよろしい。今夜は宿に帰っておやすみなさい。ゆっくり、深く息をされるのが肝要です。明日にでも又お目にかかりましょう。」
先生はこちらの心をちゃんとみぬいてらっしゃる。
「先生、有難うございます。それでは、再見」

王成の個展オープニングパーティ(5月某日)

特展酒会の会場、莫干山蓮花画房に着いたのは上海の雑踏に灯がともり始めた頃。
フランス租界のゆきつけのカフェでボルドーを二杯飲んだためかメガネの度数が合ってないせいか知らぬがマロニエの街路樹の夥しい新緑が揺らいで見えた。

会場には既に二三十人の先客がグラスならぬ紙コップにおもいおもいの酒を満たし談笑している。

中国ワインを満たした紙コップを持ち作品を見始めると本日の主役の王氏が挨拶に来られた。
年のころ四十前後のエネルギッシュなのだが眼光に温もりをたたえた画家であった。
「ドイツでの個展は大成功だったそうですね。おめでとうございます。」
「ラオパンも今夜の酒会のためにわざわざ日本からお越しくださりありがとうございます。」
「それでは個展の成功を祈って乾杯」
「カンペイ」
その後あちこちで画廊のオーナー、若い作家、ぶらりと入って来たアメリカ人などと「乾杯」「カンペイ」を繰り返していたときの事である。

忽然と、颯爽とひとりの先生がギャラリーに入ってこられた。
浅黒い精悍な顔に黒々とした口ひげをたくわえ、黒マントはおっておられる。「ん、何者」と思っていると先生は受付台の上の寄せ書き帳になにやら筆を走らせ、紙コップを受け取るとワインをめしあがった。

「李君あの人だれ」
「上海の偉い先生ですね」
「何の先生」
「わからない」
「名前は」
「わからない」
寄せ書き帳のところに李君をそれとなく連れて行った。達筆であった。
「李君、何と読める」
「えーっと、男は清也。女は濁也。たしか、老子ですね。」
「どういった、意味」
「そっちのことはラオパンの方が詳しいと思います。」