ホーム蓮の花道雑記
続-室戸岬から
 二十三番薬王寺から室戸岬の突端までの道も長い道であった。群青色の海原を左手に望みながら三日がかりで約百キロを歩いた。ただ歩いた。

 『暑い、足が痛い、腹が減った。』とかは感じてはいたのだろうが、歩いたこと以外の記憶は無い。跳躍も無く、飛躍も無い。頓挫も無ければ、落胆も無い。
ただ歩くこと、それも一歩一歩あるくことに等身大の充足を感じた。
金剛頂寺から神峯寺への道も長い海沿いの道である。

 安芸を過ぎた辺りから国道と別れ堤防の上に作られた人と自転車の専用道に上がる。

初秋の朝まだ早いキリッとした風に土佐の大海原が光り輝いている。

 前方にいくつもの岬が重なり合うように海に落ちている。その一番先端の薄い影が足摺であろう。
道ははるかだ。

 逃げるつもりは無い。うられた喧嘩は買うしかない。戦う以上は勝たねばならない。
この三ヶ月、B総研との戦いに忙殺され、そのあまりもの強欲、稚拙なやりくちに、いささか辟易していた。

 上海の黒マントの先生にお伺いをたてたら
「柔らかくて弱いものが勝ちます。ただ弱気になったら負けます。」とのお話であった。

室戸岬から
 二十四番最御崎寺から三十二番禅師峰寺まで歩こうと思う。
約二百キロの行程を五日もあれば行けるのだが、今回は件の『広尾の賢人』が同行されるので、お大師さまと合わせると同行三人の遍路行となり五日ではいささか心もとない。

 賢人は糖尿を少し患っていらっしゃっていて、「四国を二か月かけて歩いて治らない病気なんて無いんですよ。」との誘いに軽く乗ってこられたのだった。

 初日は前回打ち終わった最御崎寺の太子堂を参ることから始めた。長い山道を下り海岸線の道をどこまでも南下する。二十五番津照寺を打ち、その日の宿に決めた金剛頂寺への急峻な遍路道を登りはじめた頃から賢人の息ずかいは荒くなり、歩みはのろくなり始めた。

その晩、金剛頂寺の宿坊でビールを飲みながら
「長生きしたいなどとは思わない」と弱音を洩らす賢人に
「だから、歩くんですよ。歩き続けて果てにやむ。」と元気づけ、
「明日からは別々に歩きましょう。やはり、同行二人です。」と告げた。

 翌朝、土佐の海の水平線に茜色の陽が上る頃、勤行をすませ賢人に「それでは、お達者で」と別れを告げて土佐一番の難所、神峯寺への長い海沿いの道を歩き始めた。

 歩いているときは唯歩いているのであって、不足もないし、過分もない。

閑話休題
この一ヶ月の間に内藤氏と二度、旅に出た。
旅の事など少し語り論の締めくくりにしようと思う。
一度は七月の下旬の京都花園の法金剛院。二度目は八月のお盆の頃の盛夏の上海であった。

「法金剛院に蓮を撮りに行くんですが、行きませんか」との突然のお誘いに
「行きましょう」と即座に応えた。
法金剛院の蓮の話は氏から何度か聞いていた。ブルーロータスの中でも最も傑作だと思っている一枚も法金剛院で撮ったものだと伺っていた。
勝手にその作品に『観自在』と名ずけていた。

「突然、雨が降ってきたんでお堂の軒下で雨宿りをしてたのね。しばらくして雨が上がって、陽がさしてきたんで蓮池にカメラをかまえたら、これが撮れたの。」

葉脈の透けて見えるグリーンの広大なグラデーションの間にブルーの水面が揺れている。その真ん中に凛とした蓮の蕾が立っている。
尋常な一枚では無い。

「偶然ですか。」
「そう。偶然。」
氏は、『観自在』についてそう断言された。

   愛念愛思胸次を苦む、
   詩文忘却して一字無し。
   唯だ悟道あり道心無し、
   今日猶お愁う生死に沈まんことを。


一休宋純のこの詩はひょっとすると法金剛院の蓮池の傍らで雨宿りをしながら浮かんだものかともおもった。

『寛庵にて』
「広尾の賢人」の忠告に従って論を断念して約一ヶ月がたった。
たった一ヶ月なのにいろいろあった。
いつものように「軽く軽く些事がみな予定外であった」わけだ。今、魚野川の源流、越後の山並みを見渡す寛庵で一人夏休みを取っている。否,正確にいうと一人ではなくハナと二人である。


窓からは谷川連山の山肌が至近に望まれる。

夏枯れの魚野川のせせらぎの音には既に初秋の気配が濃い。

「もう東京へなど帰らずハナとここで暮らすのもいいか」と

今朝、ハナと朝露の残る野山を歩きながら話し合った。

ハナはそれでもいいと言ってくれたが、そんな事を思いつく弱気な自分に自嘲し、昼からウイスキーを飲んでいる。

観自在
 二回目の私論をアップした翌日、出社してメールを開くと『広尾の賢人』からメールが届いていた。

 「論は大より小が宜しく存じ折り候。この点、如何。街の豆腐屋は朝より豆腐を作り、売り歩く事こそ豆腐屋の有り様にして夢夢、一級の料理人と勘違いせぬことが肝要と思い致し候。ご賢察の程。」

 要するに賢人の忠告である。大論であろうと私論であろうと論を成すなどお前さんの柄じゃない。いわんやこの道一筋五十年の作家を説くなどお前さんの及ぶとこでもない。手遊びのブログ書きにはそれなりの分別が必要だ。
まー、ざっとこんな意味であろう。
読んでいて冷や汗が垂れてきた。大きな勘違いにいきなりきずいた、いやきずかされた。

 『広尾の賢人』の読みの鋭さと変わらぬ友情に只只、頭が下がった。
斯様な事由で『内藤忠行私論』は今回を以ってしばらく中断する事になりました。
 只、往生際が悪いと賢人にはお叱りをうけるのを承知で一言だけ「論」の結末を次回書かせていただきます。

内藤忠行私論(続)
『出会い-2』
 JALの機内誌でブルーロータスに出会ってから一週間ほどたっていた。梅雨は未だあけていない。
「一の橋の方から麻布十番に入ってしばらく進むと麻布十番温泉があるから、その角をしだりに入って・・・」背広の足元は雨のはねで、ワイシャツの背中は汗でいずれもぐっしょりになりながら右手に傘を、左手には地図を持ち十分程麻布十番界隈を歩き回っただろうか、氏のアトリエは古いビルの階段を上がった端にあった。
 額縁やら撮影機材やらが雑然と置かれた狭い通路の奥に進むと小部屋があり、やはり本や写真集やダンボールが所狭しと積み上げられた部屋の真ん中に氏は座っていた。
形どうりの挨拶をすませ、ブルーロータスに受けた感動と感銘をそれとなく語り、いきなり電話をかけ「一度、是非お会いしたいのですが・・・」と強引にアポを取り付けた言い訳にした。
 実際こういう形でアポを取り付け、初対面の他人にこちらから会いに行くというやり方は初めてのことであったし好きでなかった。

「ごめんなさい、クーラーが壊れていて、・・」
氏はそう言うと、すまなそうに団扇のような物を手渡してくれた。とにかく蒸し暑かった。
 早く本題に入り、いつもやっている様に手際よく問題点を整理し、課題とタスクをあらいだし指示を出し、打ち合わせは終える。こちらは身にしみ込んでしまった習い性で先を急ぐのだが、なかなか本題に入っていかない。
 最初は不機嫌そうに、時折気弱そうに、又気難しそうに氏は語りだした。
「最初はジャズね。マイルスにいかれちゃって、ジャズを撮り出したのね・・」
 たしかに、壁際の棚には陽に焼けて変色しかかったレコードのジャケットが数枚置かれていた。

 相槌を打つ要領で「これはいつごろ撮られたものですか。」と棚に置かれたジャケットを指差した。
「うーん、・・これね。アフリカいく前だから、もう四十年ぐらい・・」
いきなりジャケットのなかからマイルスの囁くようなペットが聞こえてきそうな緊張感がセピア色の陰影にカットされている。
『これは原点だな。』と、なぜか唐突に思った。
『四十年、この人はこの写真を宝物のように大切にしてきた。少年がはじめて捕ったカブト虫をいつまでも棄てられないように。』
ビギナーズラックと人は言うこともあるが、無心で作った最初の一作には、たとえ生硬であっても対象と作者との調和というか、必然性みたいなものが必ず表われる。
そのあと氏との会話の中で度々出てきた 『スピリチュアル・・・』がなんの気負いも無く表現されていた。

 氏を訪ねた目的は二つあった。一つは蓮の花のコレクターとして純粋にブルーロータスを撮った内藤忠行という作家を見たかった、そして話をしてみたかった。
「何故、蓮の花を取り出したのですか。どうやったら、こんなに不思議な写真を取れるのですか。」
それほどに、ブルーロータスはいままで見た蓮の花の写真とは何かが違っていた。
 今一つは東京と上海でオープンする蓮花画房のキーコンセプトとなるイメージにブルーロータスを使いたかった。たとえばウエブサイトのトップページとかにも。
内藤忠行という写真家を知ったのはそのJALの機内誌であったし、彼が斯界の権威であるのか、それともアマチュアのカメラマンに毛の生えたようなものなのか、それさえも見当がついてなかった。もし前者なら著作権料を含めその利用料がどれ程のものなのか。

『あんまり高い事を言われたら、早々に退散するしかないか。』などと思いながら氏を訪ねたのだった。
氏は何を思っていたのだろう。氏は誰にでもこんなに饒舌に、無防備に自分の作品に託してるとはいえ自身の来歴を語るのだろうか。

氏の話は続いた。何冊もの写真集をデスクに開き、サバンナの風の色について語り、ゼブラの白と黒の無謬を語り、桜の精にとりつかれた昔を語った。


内藤忠行私論 
『出会い-1』
 一年ほど前のちょうど今時分。記憶をたどってもどうも起点が定かに思い出せないのだが神宮前二丁目のこの場所にギャラリーをオープンする事に決めた。何をどう仕入れ、誰に、どう売るかといったマーケティングのプロを自称している当人が本来プランニングすべき事さえ全くしないで出店契約だけ、さっさとやってしまったのだ。

 その半月前、上海・莫干山にギャラリースペースをこれも、ほんの気まぐれと偶然で借りたことも勿論理由の一つではあった。ただ上海ギャラリーの方は莫干山に集まる現代の画家の中から気に入った作品を週変わりで展示することを最初からのコンセプトとしたのに対し、東京の方は全く何も決まっていなかった。古伊万里も李朝も良い、上海の油彩も掛けたいし、深大寺の蓮池をモチーフにした関野氏の版画も飾りたい。有田や美濃の現代陶芸もあった方がいいにきまっている。

 知り合いの骨董店主や旧知の美術館長にその事を告げると、一人は大げさな身振りをまじえ、もう一人はすまなさそうに俯きながら
「今からでも間に合います。おやめなさい。」 「素人がギャラリーなど無謀の一言です。それも、東京と上海に同時にオープンなど聞いただけで寒気がします。」

それではと、ちょっと毛色の変わった自称前衛画家にご意見を拝聴すべく赤坂の料理屋に一席設け事の次第をお話しすると
呵呵大笑され
「実に愉快、豪快ですな。山本富士子でも小暮美千代でもやらんでしょう。」と、おっしゃる。なんで、ここで、山本富士子と小暮美千代なのかわからぬまま
「いけますか。」と訊ねると
「パリの由緒正しい老舗の画廊でも近頃では抽象画は月に一枚も売れないそうです。私も波はありますが、まあー、月に四,五枚は大作を製作しておりますが、ぜーんぶ、ラブホテルの壁画というか、まあー上等な壁紙。」

「おやりなさい。ぜひ、おやりなさい。やるなと言っても、どうせおやりになるのだから。私も一肌ぬぎましょう。例えばギャラリーのネーミングを一緒に考えるとか。」
「いや、何にも決まってないのですが、名前だけは決めてます。はす の はな の画 のふさ と書きまして蓮花画房としようと思ってます。」

 もう二十年にはなるだろうか、最初は香港でたまたま買った睡蓮の水彩画であった。その後上海、ソウル、ハノイ、広州と旅に出るたびに掛け軸であったり、李朝民画であったり、油彩・版画と蓮を描いた作品を捜しまわっては買い集めた。
だから、と言う訳ではないが上海・莫干山にギャラリーを決めた時何となく胸の内では『蓮花画房』は既に決まっていた。
「いや、すばらしい。実にすばらしい。若尾文子でも原節子でも敵いません。蓮花画房ですか。ところで、この鱧うまいですな。ほー、この鮎は深山ですか。」
 前衛画家はその後上機嫌で談論、痛飲してこんな一言を残して夜の赤坂に消えていった。
「無駄、徹底的に無駄を形式化して露骨なまでに徹底する。こんな愉快なことはありません。今、私は昭和大女優東西番付表をつくってまして、東の横綱は山本富士子で決まりなのですが、西が決まりません。新珠三千代か、・・花影の池内淳子も捨てがたい。
まあー、完成したらお送りしましょう。」

 その翌日、福岡への出張でいつも乗るANA便がとれず、めずらしくJALに乗った。梅雨空の羽田を離陸した機は時折激しく機体を揺らしながら梅雨前線の雲の中を上昇していった。水平飛行に移り何気なく座席ポケットの機内誌をめくると氏のブルーロータスが5ページ程、枚数にして十枚位のっていた。
それがブルーロータスとの最初の出会いであった。
淡いブルーの濃淡を背景に造花のような白い蓮の花がうかんでいる。
作家の心象風景のように思えた。

六月某日-狢と狸の違い 最終回
狢と狸の違いの続編をかかねばと気に掛けながら半月以上たってしまった。
相変わらずの東奔西走であり、意志とは関係なく『軽く軽く些事がみな予定外』であった。

最初から結論なんてわかりきった事で狢も狸も同じ穴の仲間なのだと書こうと思っていたわけだが事実はブログよりも奇なりで、この半月の間に新手が登場してきた。
ホリエモンと入れ替わりに村上何がし氏が塀の向こうに行ってしまったのだ。狐の登場である。


そして三日ほど前またまた新手が登場した。狐の後見人、福井日銀総裁である。狐の後見人を動物に喩えると何になるのかと考えたのだが分からない。そこで広尾の賢人に尋ねたら『一般論としては適当ではないが、まあー今回の例で喩えるなら、兎さんではないか』とおっしゃる。

狢と狸のお話
『狢は狐にだまされた。狸は狢に脅された。兎は狐にご褒美をもらった。』
おしまい。
日本という国に未来はあるのか。
十日ほど前、夜の下関に着き車でホテルに向かっていた。海沿いの道を走っていた時、沖合いの船が汽笛を低く鳴らした。突然、若いころ憶えたこんな詩が思い出された。

「マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身を捨つるほどの祖国はありや」

六月某日-狢と狸の違い その2
よっちゃんもオッサンも実によく食い、飲み、しゃべり、笑った。
はなから付いて行くつもりなど無いのだが、どうも話しに入っていけない。
増収増益はあたりまで、ROEをどう高めるか、日本版SOX法を先取りして社内のリスク管理体制とコンプライアンス体制をどう確立するか。

ここでステーキをほうばり、ワインを一口飲むと、役員氏は
「視聴率至上主義と揶揄する向きもおありだが、視聴率以外にテレビ局のレーゾンデートルはありえません。いかに企業価値をたかめるか、それが経営者の責務だと思われませんか。会社ももうすぐ上場されるとお聞きしましたが」といきなり話を振ってきた。

おそらく、おそらくではあるが、上海で黒マントの先生に出会い、特展酒会の翌日から、およそ一週間にわたって、早朝の外灘で、夜のフランス租界で、老子を聞き、調息を習い、昼間、スマロの界隈を歩きながら先生に話を聞いてもらわなっかたら、おそらく・・・・・
「同感です。ぜひいろいろお教え下さい。」と応じ、気持ちの方角と密度を彼らのそれに合わせていくことが極、自然に出来たと思う。

「企業価値とおっしゃるのは、あの、時価総額至上主義のことでしょうか。」
一瞬、役員氏の眼に不快な気配がながれた。
あっちのテレビ局もこっちのテレビ局もあの時価総額至上主義の申し子たちについこの間まで恫喝されていたのだ。

六月某日-狢と狸の違い その1
いつものように早めに仕事を終え、いきつけのクラブに行き、いつものように軽く汗を流し、軽くストレッチをやり、軽くサウナに入ると、いつものように外苑西通り沿いにある小さなバーに入る。
「いつもの、二杯」
アイリッシュモルトの水割りを二杯、柿の種をつまみながら十五分程かけて飲み、いつものように千五十円を置いて店を出ようとした時、携帯が鳴った。

「今、どこ」いきなりのけたたましい大阪弁。
「今、青山。久しぶりだね。あんまりご無沙汰なんで忘れられちゃったのかと思ってたよ。」
「そんなアホなこと言わんといて、それより、これから時間あらへん。」
「よっちぁん、今どこ」
よっちゃんは一部上場企業の社長兼CEO.で二十年来の戦友みたいなもの、と思っていた時期もあったがここ数年、あまりにもリッチでセレブになられたので何故か疎遠になっていた。
「帝国ホテルの中2階のバー。友達と飲んでてこれから食事するんやけど、紹介しようと思って。」

「久しぶりだし行ってみるか、という気持ちと知らない連中と飯を食い酒を飲むのもめんどくさいという思いが一瞬拮抗した。
「友達って、だれなの」
「テレビ局の役員さん。東大出ててごっつい頭のきれるオッサン」
「テレビ局の頭のいいオッサン」、に左脳内の何かが反応した。ちょっとした暇つぶしにはなるかも。
「わかった。これから行く。オールドインペリアルバーでいいんだよね。」

6月某日
東京に帰ると又、常の日々に戻った。相変わらずの東奔西走,南船北馬と怒ったり、脅されたり,お願いしたり,貶されたりの消耗戦が日々繰り返される。
軸は選択できない。

増収増益、財務基盤の拡充と営業基盤の強化。付け加えるなら、研究開発力の向上なんていうのもいいかもしれない。
二十四時間、歩いてる時も寝てる時も軸はこれしかない。いつの間にか気がついたら軸はこれだけになっていた。
日経新聞もNHKも財務省も経団連も同友会もこの軸を全面的に賞賛し邁進する。ホリエモンはちょっとセンスがよかったから塀の向こうに行ってしまったが、狢と狸の違いを狢に聞いたら「それは狸に聞いてくれ。」と言うのかしら。

テレビは相変わらずの馬鹿騒ぎをやっていた。
狢が檻から出てくるというのでヘリコプターを飛ばしたり、バイクで追いかけたり『決定的瞬間』を撮るために何百人がかりで絶叫しあっている。



「アホクサ・・」とテレビを消そうとした正にその瞬間であった。
青いサマーセーターを着た彼がライトに照らされ大きく手をあげた。
勝者の微笑みに見えた。
軸が消えていた。

特展酒会続話(上海)五月某日
「昔はね、少し研究にのめりこんだ事もあったけど、今は、さっぱりで。もう、すっかり忘れてしまった。」
「いや、ラオパンのことだから、本質というか、髄のところは、究めて、見切られたはずだと思いますが」 微笑みながら李君が言った。

いつもの事だが李君の観察は鋭い。究めたところで前へ進むか、後ろへ下がるかは人それぞれであって、いずれも、いずれとは言いがたい。
「ところで李君さっきの老子の続き、君、知っている」
「いや、知りません。黒マントの先生に聞いてきましょうか」

先生は禁煙であるはずのギャラリーの真ん中で悠然と紫煙をくゆらせながら、談笑されている。李君は黒マントに歩み寄ると何やら囁いた。
先生はその精悍な顔をこちらへ向けるとにこっと微笑まれ近ずいてこられた。

「ニイハオ、ラオパン。上海へようこそ。」
「ニイハオ、先生。お会いできて光栄です。」社交辞令ではなく瞬間、光栄というか、幸運を感じた。これからの数分間に起きるであろう未知なる体験と転回点を予感したというべきか、先生から伝わるオーラには経験と研鑽が発酵し蒸留し、滴が光っていた。
「老君にご興味が,おありとか。」
「なにぶん、不勉強でして、お恥ずかしい限りです。寄せ書き帳の一文は老子とお聞きしたのですが。」
「はい、太上清静経です。まあ、道、タオのお経みたいなものです。」
「あの続きを知りたいと思いまして。つまり、女は濁なりの。」先生は又も、にこっと微笑まれ「男は動にして、女は静也。本より降りて末に流れ、而して万物を生ず。」と続きます。
「どのような意味なのでしょうか。意味などお聞きするのは不躾とはおもいますが。」
黒マントの先生は「フッフォフッフォフッフォーー」と聞こえる笑い声を発すると
「老君は難しい哲学は説きません。当たり前のことを少しだけ極大化というか、まあー、明快に述べているだけでして、ラオパンが実践され、経験されてきたことです。」

先生の解説によると万物には「道・タオ」という根源的な原理があり人はその「タオ」に拠って生きるべきであると。又万物には陽と陰、動と静,清と濁がありこれらが混ざり合って又万物が生まれるのだと。
そして、こうも付け加えられた。

「老君の老君たるとこは実はその後でして、水や女など柔らかく弱いものが常に勝ち、生き残る。これが法則だとおっしゃる。牝は常に静を以って牡に勝つと断定される。」
なるほど、タオは深いと痛感した。混ざり合ったこととか、静に負けたこととか遠い昔のことが思い返された。
「ラオパン、顔色がよろしくないようですが。」
「はい、ちょっと疲れが」
道可道,非常道をもっと知りたいと思った。ひょっとすると老年に差しかかっての今一度の生き方とか死に方を整理する手がかりになるかもしれない。

「ラオパン、無理をされないほうがよろしい。今夜は宿に帰っておやすみなさい。ゆっくり、深く息をされるのが肝要です。明日にでも又お目にかかりましょう。」
先生はこちらの心をちゃんとみぬいてらっしゃる。
「先生、有難うございます。それでは、再見」

王成の個展オープニングパーティ(5月某日)

特展酒会の会場、莫干山蓮花画房に着いたのは上海の雑踏に灯がともり始めた頃。
フランス租界のゆきつけのカフェでボルドーを二杯飲んだためかメガネの度数が合ってないせいか知らぬがマロニエの街路樹の夥しい新緑が揺らいで見えた。

会場には既に二三十人の先客がグラスならぬ紙コップにおもいおもいの酒を満たし談笑している。

中国ワインを満たした紙コップを持ち作品を見始めると本日の主役の王氏が挨拶に来られた。
年のころ四十前後のエネルギッシュなのだが眼光に温もりをたたえた画家であった。
「ドイツでの個展は大成功だったそうですね。おめでとうございます。」
「ラオパンも今夜の酒会のためにわざわざ日本からお越しくださりありがとうございます。」
「それでは個展の成功を祈って乾杯」
「カンペイ」
その後あちこちで画廊のオーナー、若い作家、ぶらりと入って来たアメリカ人などと「乾杯」「カンペイ」を繰り返していたときの事である。

忽然と、颯爽とひとりの先生がギャラリーに入ってこられた。
浅黒い精悍な顔に黒々とした口ひげをたくわえ、黒マントはおっておられる。「ん、何者」と思っていると先生は受付台の上の寄せ書き帳になにやら筆を走らせ、紙コップを受け取るとワインをめしあがった。

「李君あの人だれ」
「上海の偉い先生ですね」
「何の先生」
「わからない」
「名前は」
「わからない」
寄せ書き帳のところに李君をそれとなく連れて行った。達筆であった。
「李君、何と読める」
「えーっと、男は清也。女は濁也。たしか、老子ですね。」
「どういった、意味」
「そっちのことはラオパンの方が詳しいと思います。」


上海へ(5月某日)

「王成油画作品特展開幕酒会 2006.04.29.7:00pm」の案内の記されたポストカードを上海の李君より受け取ったのは四月二十日ごろのこと。近頃、老人性躁鬱症が昂じて部屋を出るのも戻るのも、寝るのも起きるのもめんどくさい。それでも何の気まぐれからか意を決して特展酒会出席のため二十九日の上海行き午前便の機上の人となる。

浦東飛行場で李君の出迎えを受ける。破顔一笑とはこの事か。「ラオパンいらっしゃい」

李君の笑顔を見ると「ああ、上海に来たとの実感」李君は上海でのビジネスのパートナーで開発センターと画廊の経営をお願いしている。
「ビジネスはどう?」
「ええ、馬馬虎虎」
「画廊の方は?」
「はい、先月、はじめて絵が一枚売れました」
「ほう、それはよかった、絶好調だね」

蓮花画房の上海ギャラリーがオープンしたのが去年の七月だから十ヶ月ではじめて絵がうれたわけだ。何と優美で繊細なる徒労、テレビの芸能人のドタバタと表参道ヒルズを軽蔑している小生にはそれがなんとも心地よい。開高先生の受け売りなのだが、馬馬虎虎と書いて「マーマーフーフー」と読むのだそうだ。馬でもなく虎でもない。ようするに「マーマーフーフー」なのだ。力んだところで人のやらかすことなど所詮「マーマーフーフー」ホリエモンも塀の中でそう悟ったに違いない。

再度やちむん探し-続き(4月某日)

壺屋を訪ねる前に軽く腹ごしらえと,国際通り公設市場の二階にあがる。

ソーキそばを注文する前にせっかくなので軽く一杯古酒を薄めの水割りで頂く。これまたせっかく沖縄なので島らっきょうとゴーヤちゃんぷるをおもわず注文。そうこうする内おねえさんが古酒泡盛の小さめなボトルと水割りセットを持ち来たる。

糸削りをまぶして食す島らっきょうは美味なり、塩味がほんのり効いたゴーヤは滋味なり。
昼間飲む古酒は至福なり。

公設市場から平和道りを抜け壺屋にいたる。
沖縄で屋根に瓦が葺けるようになったのは明治になってからの事。瓦職人は葺き終わると即興で屋根にシーサを作り載せた。材料は瓦の破片と余った漆喰。
企らまずして瞬時に造形されたシーサはどれもユーモラスな表情。

職人たちの願いはこの家が千代に八千代に安泰なれ、そして嵐からも悪魔からもこの家を守りたまえと言うことなのか。
人の営為の切実さと儚さが琉球の青い空に浮かんで消えた。

再度 やちむん探し(四月某日)
再度の沖縄行。羽田発二十時の最終便に乗り那覇空港到着は二十三時をまわった頃。夜の空気に亜熱帯の匂いかすか。今回の目的は壺屋町の骨董店主板野氏にお目にかかる事と漆喰シーサの逸品を捜し歩く事也。




板野氏は御年八十過ぎの元映画監督。古いものが好きで趣味がこうじて気がついたら骨董屋のおやじになっていたとの事。既に十数年のおつきあいで随分と良い品をわけていただいた仲なれど前回お尋ねした時、店は閉店中。隣のやちむん屋に尋ねると、週末たまに店にでるもののほとんど休業中との由。何でも夢が捨てきれず又映画を撮り始めるとの事、慶賀の至り。

空港より那覇テラスに直行、投宿。部屋で泡盛の水割りを飲みながら板野老の来歴に己が近未来を重ね合わせ一人、苦笑い。


内藤忠行先生の桜
 「十五、六年前、桜にイカレテ、何んだかんだで、一億円近く桜に入れ込んでさあ、・・・・」

先生が案内してくれたのは天王州アイルの寺田倉庫でした。巨大なエレベーターで五階にあがると、空調完備、警備万全の先生専用の十坪程のスペースがあります。中には数十枚いや百枚の大中小の段ボールケースに入った作品が床と言わず棚と言わず天井まで積み上げられておりました。


 「こっちはゼブラ、あっちはアフリカ、あとは全部さ・く・ら

恐る恐る,縦横2メートル四方はあるさ・く・らを見せてもらいました。

 「これ、桜ですか」
 「そう、さ・く・ら
 「この大きい桜、何枚位あるんですか」
 「そうねえ、40枚くらい」
 「一枚、いくら」
 「うん、○○百万ぐらい」
 「ずうっと、十年もここにあったんですか」
 「そう、ずう~っと・・・・・」

十点程、桜の作品を見せてもらい、その後黄昏時の船着場脇のバーでビールをごちそうになりました。

 「先生、売れるかもわらないし、あの大きい”さ・く・ら”一枚飾っていいですか」

先生はビールを飲み干し、微笑えむと「う~ん、でもやめとこ」

「どうして」
「あれね、湿気に弱いのよ。それに強い光も駄目だし・・・」